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映画と握手 vol.94
映画と握手
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94

少年

  • 公開|1969年
  • 監督|大島渚
  • ロケ地|小樽、札幌、稚内
公開:2026年10月19日
少 年

 戦後を代表する映画監督の一人、大島渚(1932-2013)について何かを語れるほど詳しいわけではない。けれど、彼のこんな言葉を、折にふれて心の支えにしてきた。 

「むかしの映画はよかった」という言い方がある。批評家の中にもそういう言い方をする人がいるし、一般の観客の中にもいる。私はそう言われるたびに腹を立てつづけてきた。(中略)「今の方がずっといい!」と。私は監督になった1959年以来ずっと「今」の映画監督でありたいと思いつづけてきたからである。

 竹岡和田男著『映画はいつでも映画だった 1945→1958のメモリー』(1984年、輔仁書院)に、大島渚監督が寄せた序文の一節である。私が読んだのはもう10年以上前のこと。当時は、日本映画の黄金期にも、愛する名作の封切りにも間に合わなかったことを残念に思っていた。そんな心に、この言葉は喝を入れてくれた。今を生きる映画ファンでいいじゃないか!と。

 この文章が書かれた1983年、大島は代表作「戦場のメリークリスマス」を世に送り出している。それより14年前、まだ37歳の彼が撮影した作品が「少年」だ。

 昼間から町をぶらつき、一人で遊ぶ少年の姿から物語は始まる。家族(渡辺文雄、小山明子)と合流するものの、どこか様子がおかしい。その違和感の正体を、カメラは淡々と映し出していく。

 父は傷痍軍人で定職に就いていない。生活費はなんと、少年にとって義理の母にあたる女が交通事故の被害者を装う「当たり屋」で稼いでいた。少年も同じ役を求められるが、車の前に飛び出すのが怖くてできない様子。そっと逃げ出しては、行き場もなく戻っている……。胸のつぶれる思いで見ているうちに、一家は飛行機で北海道へ。そして雪の小樽で、悲劇的な出来事を引き起こすのだった。

 実際にあった親子の当たり屋事件に着想を得た本作は、その道筋もほぼ実話通りに再現。少年に寄り添う大島監督がすくい上げるのは、犯罪に巻き込まれた痛ましさだけではない。新しい帽子をうれしそうにかぶる仕草や、3歳の弟に宇宙人のことを語って聞かせる口ぶりに、年相応の幼さと空想力が光る。

 イラストに描いたのは、全国を転々とする家族が最北の地とされる稚内・宗谷岬にたどり着き、「日本がもっと広いといいのになぁ」と少年がつぶやく場面。そのあどけない一言が残酷に響く。

 もう一つのイラストは、小樽で罪を自覚した少年が雪原に座り、弟に胸の内を明かす場面。「僕は普通の子どもじゃき、死ぬこともうまいことできん」という言葉が、ただただ悲しい。

 さて、先の序文には「私は札幌へ行き、そこで熱心に映画を語る若い人たちに会うたびに、映画をやっていてよかったと思うのである」という一節もある。本作にはクリスマス時期に札幌・赤れんが庁舎裏の道を一家が歩く場面もあるが、大島監督にとって札幌は単なるロケ地にとどまらず、映画ファンと触れ合える貴重な場所でもあったことがうかがえる。

 その中心にいたのが、著者の竹岡和田男さん(1928-2000)。1950年代から北海道の地元紙で長く映画評を担当した文化記者だ。著書『映画の中の北海道』(1991年、北海道新聞社)によれば、「少年」は札幌で十分に公開されず、「この傑作が」と憤ったファンたちの手で自主上映されたという。竹岡さん自身も、その熱気を担った一人だったのかもしれない。

 大島監督にも竹岡さんにも、私は会うことができなかった。けれど、札幌で交流を深めた2人の映画への思いは、残された作品と言葉の端々から、今もまっすぐ伝わってくる。

イラスト&文 新目七恵(あらため・ななえ)
ライター、ZINE「映画と握手」発行人。「少年」で物語の転換地となった小樽のロケ地を私がたどったのは、2014年のこと。一家が口論する船見橋や、悲壮な決意を固めた少年を弟が追いかける印象深い場面の舞台となった船見坂など、映画の面影はまだそこここに残っていて、歩きながら切ない気持ちになりました。
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