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今回は函館支局長の野田記者です。長かった警察担当記者から、現場を離れて北海道ではデスク業務を担当。でもやはり現場に戻りたいということで、函館支局長となり、日々取材現場に出ています。
まず恒例の質問となりますが、なぜ新聞記者を志したのですか?
野田:(以下、野:)高校時代からロックバンドをやっていまして、卒業後4年間は音楽を仕事にしようと活動していました。しかし自分の表現能力について大きな壁にぶち当たりました。音楽や詩作は自分の中から作り出すものですが、そもそも自分の中身が足りていないと感じたのです。そして22歳になって大学に入り、卒業のときに音楽制作とは真逆のこと、つまりいろいろな人に会って話を聞くような仕事をしたいと思ったわけです。そうやって自分を鍛えないとだめだと。
スタートはけっこう遅かったのですね。
野:新聞記者になったのが26歳ですからね。そこからは警察担当が長かったんです。
愛知県警、警視庁捜査1課、警察庁と、何だか大変そうな現場ですね。
野:元々は希望してそうなった訳ではないんですが、警察担当はやりがいがありましたね。ですから当時は、これから自分は事件取材でやっていくんだろうな、と思っていました。それくらい事件のことしか知らない記者だったんです。
ですがその後は内勤やデスクが長いのですね。
野:そうなんです。2009年頃からは現場でも、「サブキャップ」「キャップ」と言って、取材のまとめ役となる仕事が多くなってきました。
北海道へ来たのが2020年だそうですね。
野:初めての北海道勤務でした。それから3年半、札幌報道センターのデスクでした。若い記者、中堅やベテランと、一線の現場でがんばっている人たちと接したことで、自分が当初志したことを思い出しましたね。現場に出られていいなぁ、と思った反面、大変だなぁ、とも思いましたけど。
やはり現場に出られないフラストレーションがあったのでしょうか?
野:人によると思いますが、デスクとしてとても思い出に残る仕事もありました。
どんな仕事だったかお聞かせ願えますか。
野:「ワンピースを着て、街へ出た」という連載記事です。1人の記者から、性自認について悩む自分自身のことを書きたい、という相談を受けました。極めて個人的な問題ですし、記者が実名で出るということで、まず書き手を守ることを考えました。記者の本気度を感じました。生半可な気持ちでは引き受けられない、と。全人格をかけて記者とやりとりしました。できあがって、「ああ、自分のことも書けるんだな」という気持ちになりました。自分も記者に戻りたいということを強く思わせる体験になりました。
そして現場に戻る道を選んだのですね。
野:年齢を考えれば、新聞の世界で働けるのもあと10年。何をしたいのか、自分は何をしたかったのかと思ったとき、やっぱり記者なんだと思いました。現場に行って、いろいろな人に会って、その思いを伝える。これをやらなきゃ終われない、と。心からそれをまたやりたいと思い、この仕事を全うしようと思いました。
函館は自分で希望したのでしょうか。
野:もし現場に戻れるなら北海道の中でやりたいと思っていましたが、それは自分が決められることではないですからね。でも函館と決まったときは「よっしゃ!」と思いましたよ。
函館での暮らしはいかがですか。
野:もう、最高!としか言いようないですね。歴史のある町で、温泉にもふらりと行ける。そういう所に身を置ける幸せを感じます。記者は転勤が多いですが、第二のふるさとが増えていくんですよね。なにより現場に戻れて、関心のあるテーマについて書けて嬉しい。心からよかったと思えました。
最近の関心テーマは?
野:芸術が好きなので、木彫り熊に興味があります。今年は八雲町で木彫り熊が生まれて100年なんです。それから、アイヌ民族のことももっと取材したいと思っています。もちろん現在の函館の状況も。
今の函館でのトピックと言えばなんでしょう。
野:人口減は大きな問題です。函館市の人口は24万人を切りました。観光で栄えているイメージはありますが、地盤沈下は激しいと思います。新しい大泉潤市長は大泉洋の兄ということもあり、人気も高いですが、課題は山積みですね。
ありがとうございました。あと10年ぜひ頑張ってください。その後にはすばらしい音楽作品ができるかもしれませんね。
野:はは。そうなるといいですね。
1996年朝日新聞社入社。岐阜支局、尾鷲通信局、名古屋本社社会部、東京本社社会部、東京本社販売局(危機管理担当)などを経て2020年4月から北海道報道センターでデスク。2023年9月から函館支局長。