1986年(監督:佐藤純彌)
ロケ地:帯広、滝上

世界的冒険家・植村直己についてほとんど知識を持たなかった私が、映画「植村直己物語」に興味を抱いたのは、おびひろ動物園で「植村直己記念館(氷雪の家)」を偶然見つけた十年ほど前のこと。私の出身地・帯広との縁を知ったのがきっかけだった。
植村直己といえば、1970年に世界最高峰の山・エベレスト(中国・ネパール)に日本人として初めて登頂。同年マッキンリー(北米、現・デナリ)に単独登頂し、すでに制覇していたモンブラン(イタリア・フランス、64年)、キリマンジャロ(タンザニア、66年)、アコンカグア(アルゼンチン、68年)を含めて五大陸の最高峰を制した世界初の登山家として知られる。何とも輝かしい経歴だが、本人は偉ぶることなく、人懐っこい笑顔を浮かべながら冒険人生を突き進んだことは、当時を知る方ならご存じだろう。
そもそも植村が山登りを始めたのは大学生の時。「山岳部なら友だちを得ることもできるだろう」という軽い気持ちからだったが、上級生と山の厳しさは想像以上で、「殺されてしまう」と退部を何度も考えたそうだ。「ドングリ」とあだ名をつけられながらも必死に体力をつけ、3年生のころには年間約130日も山に入っていた……という歩みを私が知ったのは、植村が綴った自伝『青春を山に賭けて』(1977年、文春文庫)を読んだから。西田敏行が主演した映画版でも、ヒロイン・公子(倍賞千恵子)が、出会ったばかりの植村(西田)からこの本を渡される。読み進むにつれ、彼の素顔を知り、山への情熱に共感していくのは読者と同じだが、外国の山に登りたい一心で彼が繰り広げた仰天エピソードの数々(スキーができないのにフランスのスキー場でアルバイトしたり、アコンカグアの単独登山を許可してもらうために必死に交渉したり! ちなみに、映画ではセリフ程度だったが、大学卒業後ほぼ無一文で渡米して農場で不法労働したり、アマゾン川を筏で下ったりもしている!!)を実写化した映像として見直すと、彼の行動力に改めて驚かされる。そして、画面一杯に映し出される北極やヒマラヤの絶景を目にすると、追い立てられるように未知の冒険に挑んだ彼の原動力に触れられる気がする。
気鋭の冒険家だった植村と、帯広との接点は1976年。北極圏の走破を共にしたエスキモー犬2頭をおびひろ動物園に寄贈したのが始まりだ。その後も植村は帯広をしばしば訪れ、氷まつりや平原まつりに参加し、「日高山脈のふもと、北海道に子どもたちのための冒険学校を作りたい」という展望を抱くようになる。植村にとって転機となるはずだったが、単独登頂に成功したマッキンリーから下山中に消息を絶ったのは、1984年2月のことだった。
そうした経緯から、映画後半には植村(西田)が帯広の牧場で夢を語るシーンが登場。満開の芝ざくらに囲まれ、妻となった公子(倍賞)と将来について語り合う場面も印象的だが、その後の展開を思うと胸が痛む。公開時は消息不明となってまだ2年だったから、涙をぬぐった観客もいたのではないだろうか。
イグルーを形どったドームに植村ゆかりの品を展示した「植村直己記念館」が開館したのは1985年のこと。同年、帯広市民有志によってもう一つの活動が始まる。「植村直己・帯広野外学校」だ。青少年に自然体験の場を提供するこの取り組みは今も続き、103回目のサバイバルキャンプが7月31日から4泊5日で開催される。私の育ったあの街が、植村の遺志をしっかり受け継いでいることが誇らしい。
文&イラスト 新目七恵(あらため・ななえ) ライター、ZINE「映画と握手」発行人。日本人冒険家にとって最高の栄誉とされる「植村直己冒険賞」、2022年に選ばれたのは、宗谷岬~襟裳岬に至る山々をつなぐ約670キロの縦走ルート「北海道分水嶺」を積雪期に単独踏破した札幌の登山ガイド・野村良太さんでした。野村さんは現在、朝日新聞北海道版でコラム「山あり谷あり大志あり」を連載中! 植村の〝冒険スピリット〟は今を生きる人々を明るく照らしています。
