桜庭 一樹(文春文庫)
登場する地域:紋別市、他

「私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた」
本書はこの一文から幕を開ける。盗んだことを指摘されても「お前が濡れるといけないと思って」と悪びれることもなく私に傘を差し出す、「落ちぶれた貴族のように、惨めでどこか優雅」と形容される男。「私の男」とは、私の父なのだ。
結婚式を明日に控えた私・腐野花は、結婚相手とともに、父である腐野淳吾に会う。震災孤児となった花は、遠縁の淳吾に育てられた。花と淳吾。二人の関係は父と娘という言葉で語りきれるものではなかった。親子であり、男女であり、共犯者。彼らに一体何があったのか。章が進むごとに時は遡り、語り手を変えながら次々に明かされる過去の真相に、我々は言葉を失うことになる。
北海道拓殖銀行経営破綻や北海道南西沖地震など、北海道民の記憶に刻まれた出来事をたどりながら時間を逆行する中で描かれる、北海道・紋別市。その姿は彼らの暗くもどこか美しい過去を象徴するようだ。黒ずんだ重苦しいオホーツクの海。甲高くきしむ流氷。しっとりと寂しい雪景色。冷酷で澄んだ北国の空気感を筆者は見事に写し取っている。
禁忌を犯すこの親子は明らかに間違っている。我々が共感することはなく、不快感すら覚えるかもしれない。しかし、同時に尊さのようなものを見いだしてしまうのは、愛に飢えた彼らがあまりに純粋であるからだろう。複雑な思いに満たされながらもページを繰る手が止まらない、その筆力にただただ圧倒される読書体験をぜひ。