吉村昭(文春文庫)
登場する地域:襟裳岬

20年前、私が出産した瞬間、自分の身をもって感じ得た「命よりも大切なものはない」という確信。命の重さとともに命を守り抜く本能から湧き上がる信念が芽生えた瞬間であった。
戦後80年を迎える今年、北海道被爆者協会の高齢化による解散のニュースを受けて高校生が札幌で被爆ピアノコンサートを実施した。思いを受け継ぎ吉村昭「海の柩」を紹介したい。舞台は北海道南端部に突出する襟裳岬に近い百人浜。「手のない無数の水死体が、岩だらけの海岸に…」という一文から始まるこの作品は、太平洋戦争末期、敵の潜水艦の雷撃を受けた輸送船から兵士達が上陸用船艇に逃げ込む出来事について書かれている。先に乗り込んだ将校達が後から助けを求めた一兵卒や機関兵の腕を軍刀で切りつけていく。「切っても、切ってもまた新たな手がつかまって」海に沈んでゆく。
人が極限におかれた時、果たして自分の命と人の命を平等に扱うことができるのか。そこに将校と従兵という身分の差があるならば命はより一層不平等になる。腕を切られた兵士が最後に叫んだとする言葉、それもまた「命」と呼ばれた存在の名であり、戦争という極限の状況下では命がより不平等で不確かなものになる。この出来事を口止めされる漁村の人々にとって、真実は力によって隠されていく。自分自身が身をもって得た「命よりも大切なものはない」という確信を「すべての命」としたときに、どこまで自分自身がその覚悟と行動を伴えるのか。自身に問いをつきつけられる作品である。