山下澄人(新潮社刊)
登場する地域:【谷】(富良野市)

「富良野」という名前を聞くと、田舎での自給自足暮らしみたいなものをイメージする人が一定数いるようだ。この小説での【谷】の生活は、まさにそのイメージに近いだろう。
主人公のスミトは、俳優と脚本家を育てる演劇塾【谷】の二期生になるべく、北海道へ来た。【谷】では住む場所を自分たちで建て、農家の手伝いをして生活費を稼ぐ。共同生活をする仲間たちとの人間関係、過酷な肉体労働、地元に残してきた恋人未満の女性など、ドラマチックになりそうな要素は多々あるが、この小説は青春小説とも成長小説とも言い難い。スミトがただ【谷】の生活を営む物語だ。
この小説の作者である山下澄人氏は、脚本家の倉本聰氏が開設した私塾「富良野塾」の二期生である。あきらかに【谷】=「富良野塾」であり、スミト=作者のようであるが、これは実録小説ではない、と作者は言っている。
なるほど、この小説で起きたことは真実ではないのかもしれない。しかし、この小説からは、作者が富良野の地で過ごし、畑仕事をし、仲間と会話した「時間」が確かに伝わってくる。
私たちが過ごしてきた「時間」も、それらのすべてが映画になるようなストーリーではない。でもそれでも良いのだ。そんなことを感じさせてくれる一冊である。