宮下 奈都(光文社文庫)
登場する地域:新得町

本書は宮下奈都が家族5人で福井から北海道の新得町トムラウシへ移住した1年の記録である。日本百名山の一つトムラウシ山の麓に位置するこの地はアイヌ語で「カムイミンタラ」(神々の遊ぶ庭)と呼ばれる大雪山国立公園の懐に抱かれた別天地だ。
本書の魅力は、厳しい自然環境とそこで営まれる濃密な人間関係がユーモラスな筆致で描かれている点にある。最寄りのスーパーまで37キロ。そんな不便ささえも楽しみに変えてしまう家族の姿は、読者の心をたいへん温めてくれる。私のゼミでは15年以上にわたり、トムラウシへ学生ボランティアを毎年夏に派遣してきた。学生たちが地域の人々とつながる中で自らの生き方を見つめ直し成長していく。トムラウシは人を育てる場所だ。
また、本屋大賞を受賞した名作『羊と鋼の森』が、まさにこのトムラウシ滞在中に執筆されたという点も興味深い。主人公の姓が外村(とむら)であることは、この地の深い森が彼女の創作に決定的な影響を与えた証左であろう。静謐な森の気配がそのまま作品の根底に流れているのである。
コンビニもスーパーもない。しかし、そこには確かな生活の手応えと心に深くしみ入ることばがある。地域を知るということは単なる地理的知識を得ることではない。その土地の風土が、いかに人の心を形作るかを知ることだ。北海道の奥深さとそこで生きる人々の強さを知るための一冊として、ぜひ手に取っていただきたい。